2020年09月22日
ふるさと島歴史探訪シリーズその9(渡合橋)わたらいばし
ふるさと島歴史探訪シリーズその9(渡合橋)わたらいばし
「渡合の大蛇」
長命寺川を挟んで八幡旧市街側と奥嶋側を連絡する「渡合(わたらい・わたりあい)橋」は、大中の湖の大規模干拓事業に伴い、水位調節のための水門を備えた現在の形(上の写真)になりましたが、かつてはもう少し西側(おそらく百々神社と若宮神社を直線で結ぶルート)に架かっていました(下の地図)。


当時、長命寺川は今の半分ぐらいの川幅で、両岸にはヨシが茂り、四季折々の魚がたくさんいたそうです。
昔の渡合橋の下には、恐ろしい大蛇が住んでいた、という伝説があります(下記)。この言い伝えからも、内湖に囲まれて地形的に文字通り「島」だった奥嶋地域にとって、渡合橋が非常にシンボリックな玄関口であったことが伺えます。
実際、この橋を渡ると「帰ってきた~」という気持ちになるのが、島町民の共通の感覚のようです。

渡合」の大蛇伝説と「百々神社」
宇多天皇の御代、渡合の下に一匹の大蛇がすんでいて、ゆききの人を悩まし、村人も大変困っていました。この橋の近くに住んでいたひとりぼっちの老人のあばら家に立ち寄った敦実親王は、この老人の願いを聞きいれ、渡合の大蛇退治に挑み、見事成功します。
のちに村人たちは大蛇の魂を橋のそばに祀り、百々神社(道祖さん)と名づけました。以来、百々神社は、蛇除け、風邪や喘息の全快などのご利益があるとされ、今でも大切に祀られていますが、他方、百々神社の前を死人が通ると祟りがおきる、とも言われています。
【参考】近江八幡市市史編纂室『水辺の記憶-近江八幡市・島学区の民俗誌-』(2003)
「渡合の大蛇」
長命寺川を挟んで八幡旧市街側と奥嶋側を連絡する「渡合(わたらい・わたりあい)橋」は、大中の湖の大規模干拓事業に伴い、水位調節のための水門を備えた現在の形(上の写真)になりましたが、かつてはもう少し西側(おそらく百々神社と若宮神社を直線で結ぶルート)に架かっていました(下の地図)。


当時、長命寺川は今の半分ぐらいの川幅で、両岸にはヨシが茂り、四季折々の魚がたくさんいたそうです。
昔の渡合橋の下には、恐ろしい大蛇が住んでいた、という伝説があります(下記)。この言い伝えからも、内湖に囲まれて地形的に文字通り「島」だった奥嶋地域にとって、渡合橋が非常にシンボリックな玄関口であったことが伺えます。
実際、この橋を渡ると「帰ってきた~」という気持ちになるのが、島町民の共通の感覚のようです。

渡合」の大蛇伝説と「百々神社」
宇多天皇の御代、渡合の下に一匹の大蛇がすんでいて、ゆききの人を悩まし、村人も大変困っていました。この橋の近くに住んでいたひとりぼっちの老人のあばら家に立ち寄った敦実親王は、この老人の願いを聞きいれ、渡合の大蛇退治に挑み、見事成功します。
のちに村人たちは大蛇の魂を橋のそばに祀り、百々神社(道祖さん)と名づけました。以来、百々神社は、蛇除け、風邪や喘息の全快などのご利益があるとされ、今でも大切に祀られていますが、他方、百々神社の前を死人が通ると祟りがおきる、とも言われています。
【参考】近江八幡市市史編纂室『水辺の記憶-近江八幡市・島学区の民俗誌-』(2003)
Posted by ゴンザレスこと大西實 at 09:21│Comments(0)
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